ぽっちゃり発達障害(ADHD)のすみっこ考察記

ちょっとぽっちゃりの発達障害(ADHD)が社会のレールから外れて独立して生きる過程を記録するブログ

人に初めて会った時、立場でその後が決まってしまう?

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人との出会いは偶然の連続です。

そして世の中には沢山の人がいますが、その中でも自分の知人になる人はほんの一握りだけです。

何が人との繋がり分けるんでしょう? 考えてみたんですが、初めて会う時のお互いの立場が、その後の関係に大きく関係しているんじゃないかと思うんです。

 

 

 

例えば、近所で釣りをしている時によく会うおじさん「Aさん」がいるとします。

Aさんとは釣りで会ったら軽く日常会話をしたり、釣りの仕掛けやポイントの話をします。

そんなAさんとある日、仕事の取引でばったり会ったらどうでしょう?

仕事がすんなり進められる気がしませんか?

 

逆に仕事の取引でよく会うおじさん「Bさん」がいるとします。

そんなBさんに近所の釣り場で会ったらどうなるでしょう?

おそらく、少し挨拶したらちょっと離れた場所に行きたいと思う人が多いのではないでしょうか?

 

初めて会うのが釣りだったことでAさんは仲の良い知り合いに、仕事だったBさんはただの仕事の取引相手になってしまう。

初めて会った時のお互いの立場で、その人との関係性は180℃変わってしまうこともあるんです。

もし出会う順番が違ったら、AさんとBさんの印象は逆になっていたかもしれません。

 

出会う場面が違うだけで人の印象は変わってしまう。

人との縁は合縁奇縁。不思議なものです。

集団が苦手、仕事が辛い。そんな人に発達障害の診断というご褒美を。

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あなたはこれまで、特に理由も分からず集団行動ができなくなってしまった。学校が辛い。仕事が辛い。行きたくない。

なんて悩みをもったことはありませんか?

 

自分もこれまでの人生、特に意味もなく集団に馴染めず生きてきました。

とにかく人の多いところで上手く行動できなくなったり、会話に参加できなくなってしまうのです。

 

そんな日々が続きネットで「コミュ障」「コミュ力」等調べてみて、何とか改善しようと心みるもどうしても改善できません。

しかし、ある日自分が発達障害の「ADHD」の症状に当てはまることに気づきました。

 

これまでの人生で生きづらさは感じてきたものの障害なんて考えたこともなかったため、かなりショッキングなことでした。

 

ただ、どうしても社会で上手くいかなかった自分をもう責めなくても良いのかとホッとしました。

生まれつき苦手なのだから、逆に「よくこれまで頑張ってきた」と自分を労ってあげることができるようになりました。

 

 

特に理由も分からず集団行動ができなくなってしまった。学校が辛い。仕事が辛い。行きたくない。

そんな苦しみに悩んでいる人は発達障害を抱えているかもしれません。

 発達障害と診断されるのは怖いかもしれないし、漠然とした恐怖があるかもしれない。

 

でも診断されることで、いままで苦手だと思って悩んできたことが努力不足のせいではないと分かるのです。

 

社会に適応できず、いままで一番悩んできたのは他の誰でもなくあなた自身じゃないですか。

発達障害を受け入れることであなた自身が自分を責めるのを止めにして、労ってあげてもいいんじゃないでしょうか。

義足の選手に求められる「常識的」な陸上記録

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両足義足の陸上選手、オスカー・ピストリウス選手。

義足ながらもロンドン・オリンピックの陸上400メートル&リレーに出場し、注目を浴びていましたね。

格好いいなあ、義足なのに凄いなあと思ったものです。

この時は、義足の選手が健常者にのトップランナーと互角に戦うことに称賛の声が多く出ていました。

 

 

しかし、その後パラリンピックの出場選手の記録が伸びてくると状況は変化します。

 

記録が伸びているのは、義足技術の発展だ、オリンピックには出場するのはどうなんだ?

と言われるようになってしまいました。

 

確かに、パラリンピックの記録が伸びているのことに、義足技術の発展が影響しているのは否定できないでしょう。

 

 

しかし、もし義足の選手でボルト選手並の能力を持った、「非常識的」な速さの選手が出てきたらどうなるでしょうか?

本人の努力ももちろん称賛されるでしょうが、義足のおかげと思う人がほとんどではないでしょうか?

もし本人に本当の脚があったら、世界記録を塗り替える才能があったかもしれないのに。

世界記録を超えた途端に義足のおかげにされてしまう。(義足のせいと言った方がいいかもしれません)

 

あくまで義足の選手は、世界で戦える記録は出せても、世界記録は絶対に越えないような「常識的な」速さ・記録を求められてしまうのです。

 

 義足の選手が健常者の記録を越えることは許されないことになってしまっているのです。

 

ピストリウス選手があれだけ褒められたのは、あくまで陸上選手として「常識的」な範囲の記録だったからだと思うのです。

 

 

これから、陸上用に義足の反発力などを決めるのは本当に難しい事だと思います。

個々人に合わせて、本来の脚と同じ記録を出す義足は作れないのですから。

脚があった場合のその人の記録を越えてしまうかもしれないし、逆に縮めてしまうかもしれない。

 

 

10年程前には言われる事などありえなかった「義足はずるい。」という言葉。今では多く言われるようになりました。

 

 

義足の選手が健常者の記録を上回ることも増えてきています。

 

義足の選手が世界記録を更新する日。 世界では義足の是非の議論と、選手への称賛、どちらが多く語られるのでしょうか?